父の死から7年。父との想い出。

5月12日で、父が亡くなってから7年がたちました。77歳でした。


私は会社員の父と専業主婦の母のごく普通の家庭に生まれました。
父は昔の人で、兄弟が7人ぐらいいました。末っ子だったので、とても可愛がられて育ったようです。
家で怒ったり文句を言ったことがないぐらいとても優しい父でした。
40歳を超えてからの子供だったせいか、私と姉には甘々で、私の子供の頃はとてもわがままでした。父と対照的に母が厳しく、夜に家から出され鍵を閉められた時なんかは、こっそり父が鍵を開けて中へ入れてくれるのでした。


母が強く威勢がよかったので、私も父をナメてしまい、物心付いた頃なんかはあまり話すこともなかったです。関わることがあるとしたら、家と駅の車の送り迎えでした。
駅まで歩くと20分かかるので普段は自転車ですが、雨の日や帰りが遅くなるときなんかは、到着時間に駅まで車で迎えに来てくれました。
これが当たり前のことと思っていたんですね。今は帰省した時は歩いています。いなくなって有難さが分かります。


20代のころ冬になるとよく友達とバスツアーで雪山にスノーボードに出かけていたのですが、毎回早朝5時台に私を駅まで車で送り出し、帰りは時間通りに駅まで迎えに来てくれました。
一回だけ、早朝にちょっとしたトラブルが起こりました。寒すぎて凍っちゃって車のエンジンがかからない、このままじゃ駅まで送れないと言うのです。
バスツアーだからこの電車に乗らないとバスが出発してしまうし、今からタクシー呼んでも間に合わない!父は必死で車にお湯をかけたりしてくれたのですがダメで、行けなかったら友達にも迷惑をかける、ああどうしよう、と思ったら、父が「自転車で駅まで行こう!」と、私のスノーボード板を背負って自転車に乗り駅までダッシュしてくれ、私は無事にバスに乗れたのでした。


もう、父のその時の姿を思い出すと笑ってしまいます。早朝に重たい板を背負って猛スピードの自転車で駅まで向かう父と私。ボード板は背負って持ち運べる袋に入っていたのですが、重たく大きくて邪魔で背負って歩くだけでも大変。
よく自転車で運べたなあと思うんですね。友達に言ったらお父さんが可哀そうと怒られました。これは私の思い出です。本当に有難かったなあと思います。

 

 

 


私が社会人になって数年たった頃に初めて父の事を尊敬しました。一つの会社で40年定年まで働いたからです。今ほど厳しくなかった時代とはいえ、40年というのはなかなかの年数です。それにしっかり働いてくれたからこそ普通に何の不自由もなく生活することが出来ました。


母は父より9歳年下でいずれ先に父が老いると思い、父が60歳の定年退職した後にやりたいことをいろいろ計画していたようです。
まず初めて家族で海外旅行へ行きました。ハワイです。
私は高校を卒業した春休みで短大へ進むことが決まっていました。
同じ状況の友達が、親にお祝いで高級ブランドバックを買ってもらったという話を母にしていたせいか、父が意気込んで、「通学で使うブランドのバッグを買っていいよ。五万ぐらいまでいいから。」と言ってくれました。
お店をいくつかまわったのですが、気に入ったものが見つからずそもそもブランドに興味がなかったので、日本に帰ってから一万ぐらいのバッグを買ってもらいました。


母の次の大きな計画は、家を建て直すことでした。
父がいなくなっても、自分が死ぬまで安心して暮らせる家を用意しておきたかったそうです。こういう買い物って女所帯だとどうしてもなめられてしまうので、男の人がいるうちに行っておいた方がいいそうです。
母は今、あの時思い切って家を建て直して本当によかった、家を残してくれたことがとても有難いと言っています。


他にも、海外や日本国内ありとあらゆる場所へ夫婦で旅行に出かけていました。
(私は誘われずw お留守番。)


そんな父と母ですが、父が定年を迎える前に、初めて両親の喧嘩を見ました。
ちょっとした事から母が言った、「定年したら近くのアパートかなんかに住んでもらうよ」との発言に、初めて父が怒って、「長年働いて来たのに何を言うんだ!」と。初めての場面に私はオロオロ。
でもその直後にお昼ご飯の時間で、いつも通り食卓を囲むことに。
父が母との間に、山折りにしたスーパーのチラシを立てて境界線を作りました。顔は見えているのに。なんとも子供じみた事を!すると母がフッと吹いてチラシは倒れてしまいました。
私は笑っていいのか分からず内心どきどき。実際は喧嘩はあっという間に終了しました。両親の喧嘩って、子供はすごく気まずい思いをするんですね。喧嘩を見たのはこの一回でよかったです。

 

 

 


定年した父自身はというと唯一やりたい事、水墨画を習いたいと東京の先生の所へ通っていました。
昔から字や絵が上手くて、私と姉も小学生のころ硬筆や書道を教えてもらったおかげで、みるみる上達して綺麗な字が身に付いた事は今でも有難いと思います。
悔しかったのか、のちに母は通信で硬筆を学習していました。


水墨画の先生の所に通うだけでなく、自治体の水墨画のサークルも入って、あちこち自然の風景など描きにも出かけていました。
父は寡黙で控えめなので、そこが逆におばさま達から好かれていたようです。
描き方を親切に教えてもらったと後で話してくださる方がいて知りました。


父の兄が間質性肺炎で10年以上前に亡くなっていましたが、75歳ぐらいから同じ病気にかかりました。
兄と違ってタバコは吸っていないので先生も不思議がっていたようですが、独身のころにタバコがもくもくの部屋で同僚なんかとよく麻雀をしていたようです。昔は会社も禁煙ではなかったし、長年の受動喫煙の影響でしょうか。


じきに酸素を送り出す機械を付けてたまに悪化したら短期入院する、を何度か繰り返し、次第に私はいつ呼び出されてもすぐに駆けつけられるよう、会社にもお泊りセットを置き、母や病院から連絡が来るかもしれないので携帯を肌身離さずにいました。


亡くなる年のゴールデンウィークに病院へ行った時は大丈夫そうで一安心したのですが、ゴールデンウィーク明けの5/12、母から会社に電話があり、すぐ病院に来てと言われました。心づもりはあったので思ったより冷静に、置いてあったお泊りグッズを持ち、早退しますとメールしてすぐ病院へ。意識不明の状態でしたが耳は聞こえているんだよと教えてもらい、耳に大声で話しかけました。みんなここにいるから安心して。大丈夫だよ、と。


とりあえずこの日は母だけ泊まり、私と姉は一度実家へ帰り翌日また来ることに。
病院を出てしばらく歩いていた所に母から電話があり、病院へ引き返しました。私たちが病院を出たあとに亡くなりました。
親戚の方に、「娘達には最後を見られたくなかったんじゃない?」と言われました。
とてもとても、安心したような穏やかで優しい顔をしていたので、悲しかったけれどなんだかほっとしました。


通夜と葬儀はやる事がいっぱい。この一週間は今までで一番あっという間に過ぎました。それから一ヶ月は母の事が心配で毎週末実家に帰りました。

 

 

 


それから6年が経ち七回忌を迎えるタイミングで、母から「遺書が出て来たんだけど。」と言われました。なんで今まで見つからなかったのって思いますが、箱に入ってその上からスーパーの白いビニール袋に包まれていたので、大事なものと思わず全く気付かなかったそうです。


”私は賢く理知的な妻と素直な娘2人に恵まれ何も思い残す事はない人生だったと。
それから夏の暑い時期に少し遠い病院に入院することになった時、妻は嫌な顔一つせず毎日明るく病室に来て世話をしてくれた、これだけは本当に心から感謝している。ありがとう!” と。
あまり思った事を話すタイプじゃなかったのでシンプルな遺書でしたがこれには驚きました。


もし先に母が亡くなって父が1人になったら私は会社を辞めて実家に帰ったと思います。女の人は強いですね。母はしばらく落ち込んでいましたが、元々テニスやパソコン教室や散歩会や俳句会など通っていて、今はそれが楽しくて忙しいようです。
母はPCを持っていますがまだガラケーです。私がiPhoneやiPadやポケットwifiを持っていると興味津々。twitterやInstagramなんかも興味があるようで、この間は「ハッシュタグって何?」と聞かれました。まさか実際にアカウントを開設するつもりはないでしょうが、ちょっと教えて触らせてと、学ぶ気まんまんです。笑
母が元気に生活していて、私も自由でいられる、このような状況に神様に感謝しています。


父はこの世の中で生きた通りに、死んだ後の世界で好きな水墨画を描いて過ごしているようです。
もし大切な人を亡くして悲しみに暮れて過ごしているような方がいたら。大丈夫です。
亡くなった方はその後の世界でそれなりに過ごしているはずです。
だから自分の一度きりの人生をしっかりと生きましょう。


亡くなった父への親孝行は、私が残りの人生をしっかりと真っ直ぐに生きていくこと。
そしてこの世の中の嘘や悪がなくなって、すべての人が明るく前向きに喜んで安心して生きることができる社会が作られるようにと願い、微力ながらも実践していくこと。

 

父が描いた水墨画を葬儀のときに飾り、皆さんに見ていただきました。

最後の水芭蕉の絵は、母が花を描いて欲しいと言って描いたもので母のお気に入りです。